父は、派手なことが嫌いで、いつも家族のことだけを静かに想ってくれる人でした。そんな父が亡くなった時、母と私は「お父さんらしい、ささやかなお葬式にしよう」と、ごく自然に決めていました。私たちには、多くの弔問客を招いて立派な葬儀を執り行うほどの経済的な余裕もありませんでした。私たちは、葬儀社の方に正直に予算を伝え、「家族葬」という形を選びました。参列者は、母と私、そして数名の親しい親戚だけ。会場は、大きな式場ではなく、葬儀社の会館にある小さな和室でした。祭壇も、豪華な白木祭壇ではなく、父が好きだった野の花のような、素朴な草花で飾ってもらいました。通夜の夜、私たちは祭壇の前に座り、お線香の香りに包まれながら、一晩中、父の思い出話をしました。子供の頃に叱られた話、旅行先での失敗談。涙を流しながらも、何度も笑い声が起きました。それは、多くの弔問客の対応に追われる葬儀では、決して得られなかったであろう、かけがえのない時間でした。告別式も、大げさな弔辞などはなく、一人ひとりが父の棺に花を入れながら、心の中で最後の言葉をかける、という静かなものでした。葬儀にかかった費用は、一般的な葬儀の半分以下だったと思います。しかし、私たちが感じた満足感や、父への感謝の気持ちは、どんなに高価な葬儀にも劣らない、温かく、そして深いものでした。葬儀が終わった後、親戚の一人が「〇〇さん(父の名前)らしい、本当に良いお式だったね」と、涙ながらに言ってくれました。その言葉を聞いて、私は心の底から安堵しました。葬儀の価値は、その規模や値段で決まるものではない。どれだけ故人を想い、その人らしい時間を過ごせたか、ということなのだと、父が最後に身をもって教えてくれた気がします。安いけれど、心はどこまでも豊かだった、私たちの小さなお葬式。それは、今も私と母の誇りです。